センチメンタル夢遊病

音楽とか、たまに映画とか。思ったことや日記。別のアカウントでもう1個別のはてなブログを書いています。

と、

今とても久々にRADの「×と○と罪と」を聴いている。

まず、罪、で終わっていなくて、罪と、となっていること。何を意図したのか解らないけれど、この感覚、すごく解るような気が勝手にする。

と、の後には聴いた人が十人十色に色々な言葉をつけるのかも知れない。

3年前に起きた震災と言うのは、まだ沢山の課題を残していて、具体的にも精神的にもまだまだ傷は残っている。なんて、現地に行ってもいない私が偉そうに言えることではないのだけれど。

それ以降にリリースされた音楽が、多くのバンドに於いて、、この震災の影響を受けたのは当たり前であるし、「音楽をつくる人間は音楽だけつくっていればいいじゃないか、」と言うのはどう言う考えなのか、私には分からない。なにかをつくるひと、表現するひとには考えずに居られる問題ではないんじゃないだろうか。多分そこで、「こんな時こそ音楽が必要!」て思ったミュージシャンは居なくて、音楽の必要性、命題だとかそう言ったことの無力さを彼らが一番感じたんじゃないだろうか。音楽は衣食住に入っていない。そう言うことだよ。被災したひとたちがまず必要なのは、食べるもの住む場所着るもの。

音楽は娯楽である、と言う考えは間違っていない。

何が言いたかったんだっけ。

私、横浜アリーナで洋次郎が、確か会心の一撃の前だったと思う、「幸せになれよー!」て叫んだのが忘れられない。

何を頑張ってきた?何をやり遂げた?

ここまでどうにか生きてきたこと、って答えたいけど、それしかないけど、そんなのは当然通用しない。

言葉にすれば、脳の伝達系だとか、本来分泌されるものが分泌されてないとか、それだけ。

どの辺から間違えたのか分からなくて、どこからが自分の責任なのか分からない。分かる、逃げる理由を見つけてしまったよね、私たち。

トイレに小さい頃二人で逃げ込んだように、逃げ場所を見つけてしまったよね。

私はだから逃げたのだと思う。だからその先にそれ程度しか待ってないのは当然。だから全部終わらせたくなるけど、そんな力はない。体力的にも精神的にも、やる気もない。

だからって、自分らがマイノリティな訳ではなくって。

TVで難病だとかそう言った人々のドキュメンタリーを流すのは何故なんだろう。よくわからない。それを見て泣いてる人は何に泣いているの?

頑張って金メダルを取ったスケート選手、ここ!ってとこで涙を誘うような音楽を流し、彼が発した言葉ではない言葉がナレーションとして流される。本人の意見や真意は幾らでもねじ曲がって届く。

批判からは何も生まれなくて、だけど違和感を感じないのはとても危険。

ほんとに面倒臭くて、善悪だとか、倫理観とか、もうほんとによく分からなくて、常識ってなんだろう。

何が常の意識?私の常の意識なんて、車が一台もいなくて、自分も他人も、誰一人として怪我する可能性が皆無と判断したら信号の色が何色でも渡るよ。私の常の意識なんてそんなだよ。

不幸自慢だとかしたってしょうがなくて、そう言われたら仕方ないけど、ああもう、何が何だか分からなくなってきた。こんなのは、誰の目にも触れないところに書いておけばいい。だけど書くんだよね。不特定多数の人がみる場所に。

そんな自分が嫌だけど、でも今正にこれを公開するのさ。訳が分からない。